【速修】③日本国憲法(1)大日本帝国憲法
01 明治憲法は伊藤博文らによって作成されたが、天皇が国民に授ける欽定憲法という形で発布された。
02 明治憲法下、天皇が統治権、つまり立法・行政・司法権を全て掌握していた。
03 明治憲法下、統帥権(軍隊の最高指揮権)については、帝国議会の協賛、国務大臣の輔弼が必要であった。
04 明治憲法下、帝国議会は民選の衆議院と非民選の貴族院の二院制で、貴族院が優越していた。
- ✕ 両院の権限は同等であった。
05 明治憲法下、内閣は議院内閣制として規定され、議会から国務大臣が選出された。
- ✕ 内閣については条文の規定なし 「議院内閣制」ではなかった。これが、政府が、議会や政党を無視した政治を行うことができた背景である。
06 明治憲法下、内閣総理大臣は同輩中の首席でしかなかった。
07 司法権は裁判所に与えられていたが、天皇の名において行使されており、特別裁判所の設置も認められていた。
- 〇 センター問題だが少し悩ましい。後段は承知の通りかと思うが、天皇が統治権を総覧していたということだから、前段の「司法権が裁判所に与えられた」というところに引っかかりを感じたのでは。が、「司法権は、天皇の名において、法律の定めるところにより、裁判所がこれを行う。」と明記されており、司法権は裁判所に付託されていた。司法権の独立自体は大津事件(1891)などを通して一応守られていたとは言えるが、下級裁判所及び大審院(最高裁判所にあたる)に付託されていたのは民事裁判および刑事裁判だけであった。皇室裁判所(一度も開かれることはなかったが)、軍法会議、行政事件を終審として扱う行政裁判所が別に設置されており、これが「特別裁判所」ということになる。軍法会議では将校が裁き、行政裁判は行政機関が裁くといった具合で、しかも一審のみ、ということで裁判の公正さが担保されていないため、日本国憲法では禁止された。なお、通常の裁判所、大審院にも違憲審査権もなかったことは想像できるはず。
09 明治憲法では、臣民の権利は、法律の範囲内でのみ認められていた。
- 〇 従って、法律で制限できた。なお、表現の自由や信教の自由は認められていたが、表現の自由については後に「治安維持法」などで制限された。「信教の自由」については憲法に明記されることにはなったが、一方で、宗教政策として明治政府が躍起となったのが、「国家神道」の確立であった。天皇親政をうたう政府は、天皇を神聖化するために、「神道」を重視、神道国教化を図ろうとした。まず神仏分離に着手、「廃仏毀釈」が進められた。そして、神社を政府の管理下に置き、神道に国家の祭祀の役割を与えた。ただし、大日本国憲法で「信教の自由」を規定した手前、「神社は宗教にあらず」という解釈のもとに、国教化には至らなかったが、天皇への崇拝を「国家道徳」として強制することとなった。
10 明治憲法では、思想、良心の自由は保障されていなかった。
13 男子普通選挙制の導入以前に名望家政党による政党政治がみられた。
14 滝川事件や天皇機関説事件を背景に、言論・思想の自由を抑圧する治安維持法が1925年に成立した。
15 二大政党の党首が交互に首相となることを立憲政治の当然のあり方とする考え方は憲政の常道と呼ばれた。
- 〇 現社では問われないかも知れないが、倫政ではあり得る。教科書記載あり。
16 1940年代初めの日本では、新体制運動の下に、各政党が解散して大政翼賛会がつくられ、国民生活への統制が行われた。