【共通テスト対策】フクフクちゃんの公共(現代社会)・倫理・政治・経済

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【速修】⑪国際政治・情勢(2)冷戦・雪解け・冷戦再燃・多極化(1960~)

23 1960年は、アフリカの年とよばれるほどアフリカで多くの国が独立した。
  • 〇1960年はアフリカの年とおぼえておこう。国際連合総会が「植民地独立付与宣言」Declaration on the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoplesも出した。「植民地独立付与宣言」が採択されて以来、およそ60の植民地が独立を通して自決を達成し、主権国家として国連に加盟したとのこと。

 

24 東ドイツから西ベルリンへの亡命があとを絶たないため、西ドイツ政府が1961年からベルリンの壁の建設を始めた。
  • ✕壁を作ったのは「東ドイツ政府」 亡命・流出が後をたたないため、それを防ぐため。冷戦のシンボルではあるが、思ったより遅いので、下のキューバ危機と同時期であるとインプットしておこう。

 

25 多極化も進み、1960年代に、第一回非同盟諸国首脳会議が開かれた。
  • 〇1961年に「ユーゴ」のベオグラードで開催された。1964年には経済面での異議申し立てであるUNCTADも開催され、「第三世界」からの声も高まった。なお、「多極化」はやや曖昧な表現ではあるが、米ソの二極対立構造に対して、それとは違う動きであるこの「非同盟諸国」の連携とか、後に触れる中ソ対立や、フランスの独自路線なども「多極化」に含まれる。まさに多極的な言い回しである。

 

26 1962年ソ連がミサイルをキューバに搬入したのに対し、アメリカは海上封鎖を行い軍事侵攻の準備を進め、キューバからのミサイル撤去を実現させた。
  • キューバカストロのもとで1959年新米政権を倒し社会主義政権を樹立していた。ここにフルシチョフが対米圧力のミサイルを搬入、これを察知したケネディ政権が対抗、核戦争の危機を孕んだ13日間の緊迫した日々・・・両国首脳の自制で衝突は回避・・・。冷戦時代の危機ピークとされる。

 

27 キューバ危機を契機に米ソ首脳のホットラインが作られた。

 

28 キューバ危機後に、緊張緩和、フランス語でいう「デタント」が進んだ。
  • デタント フランス語 détente は冷戦体制下の1960年代末から1970年代末にいたるアメリカとソ連の政治対話が行われるようになった期間を指す。

 

29 1960年代前半、緊張緩和が進む中で、部分的核実験禁止条約が、米英ソの間で結ばれた。
  • 〇1963年に、キューバ危機回避をきっかけに、平和共存の気運が高まり、核実験に関する最初の条約が結ばれた。デタント期の象徴的なものである。米英ソというところに引っかかりを感じたかもしれないが、これは正しい。その後年内に多くの国が調印したが、フランスと中国は調印していなかった。1960年に初めて核実験に成功したばかりのフランスは同調せず、核開発が遅れた中国も参加せず、中国は1964年に最初の核実験を成功させた。このあたり、一枚岩でなかったことも知っておきたい。

 

30 1960年代に、NIEO(新国際経済秩序)の樹立に関する宣言が採択された
  • ✕NIEOは1970年代(1974)の国連資源特別総会。1960年代はまずはUNCTADの結成。1973年のオイル・ショックと連動してNIEOを捉えておこう。時々、年代に誤りを含んだ問題も出るので、少し疑ってかかろう。この南北問題については、後で国際経済のところで触れ直す。

 

31 南北に分かれたベトナムでは、1960年代になると対立が激化し、アメリカやソ連が介入し、ベトナム戦争が本格化した。
  • 〇日本の植民地化にあったベトナムでは、北に社会主義政権、南にフランスとつながった資本主義を標榜する政権が立っていた。南ベトナムを「解放」しようとするゲリラ活動が活発化したため、アメリカが介入、解放戦線のバックにいた北ベトナムを「北爆」、戦争が拡大した。この時に枯葉剤などが撒き散らされたことも承知のことと思う。なお北はソ連が支援をし、米ソの直接戦争ではないが、「デタントの一方で、代理戦争」の様相を呈した。アメリカは1965年に本格介入。この時の大統領はケネディではない。ケネディは1963年に暗殺され、副大統領のジョンソンが断行・・・

 

32  1960年代後半イギリスがNATOの軍事部門から脱退した。
  • NATOの軍事部門から脱退したのはフランス。1968年のこと。これも多極化の一例である。なお、フランスは2009年に復帰した。

 

33 1960年代後半、米ソ以外の核兵器保有を禁じる核拡散防止条約(NPT)が発効した

 

34 チェコスロバキアで1960年代後半に生じたプラハの春に対して、アメリカは援助するため直接の軍事介入を行った
  • ✕米ソの緊張緩和を背景に生じた自由化路線ではあるが、緊張緩和とは言え、この時期、ソ連の息がかかっている地域にアメリカが直接介入できるわけがない。「ソ連が弾圧した」が正しい。結局、自由を求めたこの動きは成就せず、プラハに「春」は訪れなかったが、これもまた多極化の一例であった。1968年の事件である。

 

35  1960年代後半、中華人民共和国とソ連とが論争や国境紛争といったかたちで対立が激しくなった。
  • 〇同じ社会主義の国ではあるが、この時期、毛沢東のもとでヒビが入り対立が激化した。これも多極化の一例であるが、実はキューバ危機と同様に、核戦争の危険性も孕まれていたほど対立が激化、一触即発の状況であった。

 

36 1969年米ソ間でSALT戦略兵器制限交渉が開始された。
  • 〇1969年は上記の「中ソ国境紛争」と米ソの歩み寄りであるSALTという対照的な出来事が起こった年であった。後にアメリカは中国とも国交を結び、米ソの二極対立構造から「米ソ中のトライアングル」体制も出来上がることになるが、その起点となった年である。なおSALTという交渉はあくまで「制限」であって「削減」ではなかったが、72年に1次が、79年に2次が調印され、デタントの一例であった。

 

37 ベトナム戦争の長期化でアメリカの財政赤字が悪化し、それがドル・ショックの背景となった。
  • 〇ドル・ショックは1971年のこと ベトナム戦争の影響も大きかった。なお、上記のSALTもアメリカからすればベトナム戦争による疲弊のため推進せざるを得なかったとも言える。

 

38 1972年ニクソンが中国との国交を樹立したことで、中ソ関係が悪化し、中ソ国境紛争に発展した。
  • ✕中ソ関係の悪化はないし、国境紛争は1969年のことなので✕であるが、ニクソンの中国訪問という転換は重要である。この段階では正式な国交回復ではなかったが、ニクソン毛沢東が相互の主権を承認し合った。正式な国交回復は1979年で、アメリカはカーター大統領、中国は中国を開放路線へと大転換させた鄧小平であった。なお、1972年日本も中国と国交を回復した。首相は田中角栄の時。来年は2022年。50年前の1972年が問われる可能性あり。なお、中華人民共和国は前年の1971年に中華民国に代わって国連の代表権を国連総会で認められていることも重要。この問題はかねてからの懸案事項であったが(台湾しか支配していない中華民国常任理事国でよいのかどうか)、アフリカ諸国などの加盟により、アメリカ・日本は少数派に転落したことを背景に、ついに代表権が交代した。ただし、このことをアメリ国務長官キッシンジャーは予見、日本には同意を得ずに国連での交代劇の前に秘密裏に北京を訪問して毛沢東周恩来接触していた。

 

39 1970年代初頭にソ連の支援を受けて南北ベトナムが統一されるとソ連と対立するアメリカはベトナムでの軍事行動を本格化させていった。

 

40 発展途上国にとって不利にならない国際経済の構造を実現するため、NIEO樹立宣言が国連資源特別総会で採択された。

 

41 CSCE(全欧安全保障協力会議)が結成され、ヨーロッパにおける安全保障や、緊張緩和に関する問題が討議された。
  • 〇1972の「東西ドイツ相互承認」を背景に1975年アメリカ・カナダも加わりCSCEが開催された。ヘルシンキ宣言を採択し冷戦終結にも大きな役割を果たした。世界史では取り上げることはないが、CSCE(全欧安全保障協力会議)は、現社では頻出事項なのでインプットしておこう。