【速修】⑫紛争・難民・軍縮・領土問題(1)紛争と難民
01 国連憲章は、人民の自決の原則をうたい、国内の少数民族が分離独立を求めた場合には、それを認めることを、加盟国に義務づけている。
02 集団殺害防止条約(ジェノサイド条約)は、冷戦終結後に世界の一部の地域で行われた「民族浄化」を背景として採択されたものである。
- ✕冷戦終結後ではなく、集団殺戮であるジェノサイド genocide 、あるいはナチスによるユダヤ人に対する大量虐殺ホロコースト holocaust を受けて、集団殺害防止条約(ジェノサイド条約)は、戦後まもなく1948年の国連総会で採択。集団殺害が平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、国際法上の犯罪であることを確認し、これを防止し、処罰することを約束するもの。ただし、これはあまり注目されていない。何故か? 実は、日本がこの条約を批准していないことにその一因がある。教科書に日本が批准していない条約の一覧が挙げられているが、そのトップに挙げられているのがこのジェノサイド条約。日本は国内法に処罰規定がないことを理由に加盟していないとのこと。しかし、今再び、中国・新疆ウイグル自治区での人権弾圧をきっかけにジェノサイド条約が注目され出しているそうだ。ウクライナ問題もあり、今後は批准に向けた機運も生まれるのではないかと思われる。その意味では、今後、試験に狙われる可能性が高い。アメリカも批准。ロシアも旧ソ連時代に批准。
03 米ソ冷戦の代理戦争としての性格を宿していた北アイルランド問題のような地域紛争は、冷戦の終結後かえって激しさを増した。
- ✕北アイルランド問題は米ソ冷戦の代理戦争ではない。米ソ冷戦の代理戦争としては、朝鮮戦争、ベトナム戦争の他、アフリカでの紛争が挙げられる。北アイルランド問題の歴史的背景について簡單に触れておくと、かつては、アイルランドはイングラントが植民地化していたが、独立戦争によりアイルランド共和国として独立、しかし、北アイルランドだけはイングランド、一般に日本で言うところのイギリスにとどまっていた。アイルランドの住民はケルト民族・カトリック教徒が主だけれど、北アイルランドは本国ブリテン島から移住してきたプロテスタントが多いためであった。ところが、1960年代から、北アイルランドでの少数派のカトリック住民がイギリスからの独立を求めて対立、独立派によるテロも起きた。別の問題で「北アイルランドでは、イギリスからの独立を求めるカトリック系住民と、プロテスタント系住民との間で、対立や紛争が繰り返されてきた。」という出題もあり。これは〇。そこで、冷戦終結後の1998年、イギリス政府と独立派の間で和平合意が成立、翌年イギリス領のままではあるが「自治政府」が発足することになった。ただし、2017年に自治政府が崩壊、2020年に復活するも・・・ということでまだまだ不透明なのが現状。西ヨーロッパでは、「スコットランドの独立問題」、スペインの「カタルーニャ地方」「バスク地方」独立問題など、他にも独立問題あるので、まだ出題はされていないが、それぞれどういうことなのか確認しておこう。
04 1993年には、パレスチナ問題において、暫定自治の原則に関する合意が成立した。
- 〇パレスティナ問題については、戦後紆余曲折があることに触れてきた。「イスラエルでは、パレスチナ帰属問題をめぐって、ユダヤ教徒とキリスト教徒との間で紛争が起きた。」なんてな簡単な問題も出されているが、これはもちろん✕。ユダヤ教徒とイスラームとの複雑な対立、弾圧されたユダヤ教徒のシオニズム(故郷再建)と先住のバレスティナとの必然的な軋轢。国家建設をめぐる民族間の紛争が発端となり、数次にわたる戦争や、さらにパレスティナ人による「インティファーダ」という抵抗運動が起こるなど、争いが続いてきた。かつては「インティファーダ」あたりも問われたことがあった。しかし、一時、前進があり、既に触れたように、1993年の「オセロ合意」で、暫定自治の原則に関する合意がなされ、パレスチナ暫定自治政府を発足させ、ガザ地区などでパレスティナ人の自治を行うことになった。
05 パレスチナと対立するイスラエルは、安全保障上の理由から、フェンス(分離壁)を設置したが、それについては批判もある。
- 〇前項で触れた前進は、しかし頓挫した。イスラエルの首相ラビンが暗殺され、PLO議長のアラファトが死去すると、再び対立するようになった。2002年からイスラエルが「ヨルダン川西岸地区」に長大な分離壁の建設を開始した。分離壁の建設は国際的に不当な差別であると非難されており、国際連合総会でも2003年10月に建設に対する非難決議がなされた。国際司法裁判所は2004年にイスラエル政府の分離壁の建設を国際法に反し、パレスチナ人の民族自決を損なうものとして不当な差別に該当し、違法であるという勧告的意見を出している。しかし、フェンスは撤去されていない。また先に触れた首都問題、イスラエルは、東エルサレムも含むエルサレム全域を併合したとし、ここを首都と宣言していること、今後は、このあたりの状況のことが、特に現社で問われそうだ。地図で出題される可能性もある。西が「ガザ地区」、東が「ヨルダン川西岸地区」とエルサレム。
06 コソボ紛争におけるNATO(北大西洋条約機構)軍の空爆をめぐって人道的介入の是非に関する議論が起こった。
- 〇旧ユーゴに関しては、NATOはセルビアに二度空爆を行った。一つはボスニア・ヘルツェゴビナに対する弾圧に対して1995年、もう一つはコソボ独立に対する弾圧に対して1998年。後者については、アメリカ・ブッシュ政権が安保理決議を受けずに、空爆を行ったこと、既に見たとおり。従って問題文は〇。なお、「民族自決を根拠にアルバニアからの分離独立を求めてきたコソボは、アルバニアからの同意が得られないまま、独立を宣言した。」は✕。逆で、コソボはアルバニア系住民の多く、イスラム教徒が主というマイノリティで、セルビアからの独立を求めたもの。現在、コソボは多くの国が主権国家として認めているものの、ロシアの拒否権で国連に加盟できていない。ちなみに、現在、NATOの拡大が取り沙汰されていることから、NATOによる空爆の例として、このコソボ紛争にかかわる空爆は今後も問われる可能性あり。
07 チェチェン問題では、独立を求めるチェチェン人勢力とイラク政府との間で和平協定が成立したが、その後、再び武力衝突が起こった。
- ✕イラクではなく、ロシアがチェチェン人勢力を弾圧。旧ソ連が解体した後、ロシア南部のカフカス地方で、ロシア連邦からの分離独立を宣言した少数民族イスラーム系のチェチェン人勢力に対し、ロシアが分離独立を認めず軍事侵攻したもの。1994年勃発の第一次チェチェン紛争はエリツィン大統領の時、1999年勃発の第二次チェチェン紛争は、2000年にプーチンが大統領に就任すると、戦闘やテロが激化し、2009年まで続いた。ロシア軍は独立派とテロ組織をほぼ制圧したとし、プーチン大統領の息がかかった首長の独裁体制により一応の治安は回復されたが、独立要求は今なお収まっていない。このチェチェン共和国も地図上の位置を確認しておこう。ウクライナ侵略のからみで今後も出題の可能性あり。
08 2000年には、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との間で、最高首脳による初めての会談が開催された。
09 東ティモールは1976年に隣国に軍事併合され、抵抗活動への弾圧が長年続き、多くの犠牲者を出してきたが、住民投票の結果、2002年に独立を達成した。
10 ソマリアでは、大統領派と反大統領派との間で内戦が起こったが、アメリカの主導による国連の仲介が成功して、両派は停戦した。
- ✕ソマリアはアフリカの角と呼ばれる場所に位置する国で冷戦終結前の1988年に内戦を勃発させていた。国連事務総長ガリの提案で武力行使をも予定したPKOを行ったが失敗。従って問題文は✕。「ソマリア紛争では、国連のPKF(平和維持軍)が派遣されたが、内戦の複雑な状況に巻き込まれ、事態の収拾に失敗した。」なら〇。以降も内戦が続き、「不安定な情勢が続いているソマリアでは、近年、その周辺海域において海賊行為が多発しており、国際海運の障害になっている。」という出題もあり。これは〇。2009年、日本も「海賊対処法」という恒久法を制定し ソマリア沖・アデン湾に自衛隊派遣し護送活動を行った。いや、現在も進行形である。今後は、ソマリアに対するこうした日本の対応が出題される可能性もある。「海賊対処法」が時限立法ではなく恒久法であるという点、ソマリアへの派遣がPKOではない点、細かいが狙われるかも知れない。
11 ルワンダでは、1990年に多数派と少数派との対立が内戦に発展し、1994年に大量虐殺が起こり、その混乱の中で難民が流出した。
- 〇ルワンダの紛争も何度か出題されてきた。「ベルギーからの独立後、多数派と少数派の間で内戦が起こり、大規模な虐殺が行われ多くの難民が発生した。」という出題もあり。これも〇。一方で、現在は融和が進み、「アフリカの奇跡」とも呼ばれている。今後は、融和の例としての出題を期待したい。
12 スーダンで内戦が激化し、同国南部が分離独立を果たした。
13 トルコやイラン、イラクなど複数の国に居住しているクルド人は、民族の独立を目指して運動し、それにより紛争が生じたことがある。
14 中国の新疆ウイグル自治区において、チベット仏教を信仰するウイグル人に対する、中国による人権侵害問題が国際的に問題視されている。
- ✕新疆ウイグル自治区には、イスラム教を信仰するトルコ系のウイグル民族が住む。しかし、中国政府がその文化を抑圧、そのため独立を求める動きも高まった。一方で、独立を阻止する目的も含めて、漢人の植民が進められ、これによって自治区内での衝突やテロ行為も頻発するようになった。拷問等の抑圧が日常化しているとのアムネスティ・インターナショナルによる報告等もあり、現在、アメリカが人権問題として中国への批判を強めている。なお、問題文は駄作であるが、チベットと区別してほしくてこんな誤文を掲載しておいた。チベットはチベット仏教(ラマ教)を信仰するチベット民族の「自治区」。戦後の1951年に中国に編入されたが、抑圧が絶えず、宗教的・政治的指導者ダライ・ラマ14世が非暴力不服従運動を展開、インドに亡命政府を樹立しながら、高度の自治を求め続けている。この二つの自治区については地図上の位置も含めて、区別しながら状況を理解しておきたい。
15 難民条約は、冷戦終結後に国連総会で採択された。
16 難民問題に対処するため国連によって設置された機関として、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がある。
17 「難民の地位に関する条約」で難民と定義される者の中には、生活苦などの経済的理由で母国を離れた人々が含まれる。
- ✕経済的理由では難民とされない。
18 難民条約上、難民とは、大規模な自然災害や戦争・国内紛争のために国外に逃れた者を言う。
19 国内避難民も、難民条約の保護の対象とされている。
- ✕国内避難民は難民条約上の保護対象に含まれない。しかし、「難民と並んで国内避難民も、国連難民高等弁務官事務所は支援の対象としている。」
20 難民条約では、これを批准した国は、帰国すると迫害される恐れがある人を保護しなければならないと定められている。
- 〇迫害を受けるおそれのある国に難民を「追放・送還しない義務」を定めている。これを特に「ノン・ルフールマン フランス語て non-refoulement 」の原則と呼ぶ。この用語も出題実績があり、覚えておきたい。
21 不法に入国した場合でも、当局に速やかに理由を示して難民認定を受けた人々には、不法入国を理由にして刑罰を科してはならない。
- 〇命からがら亡命してきた人を、不法入国を理由に排除すること・・・そんな事が人道的な観点から判断して judge from the humanitarian standpoint できるだろうか・・・と問うてみれば自ずと答えは出るのでは? なお、条約上の難民とは認定できない場合であっても、本国情勢などを踏まえ、人道上の配慮が必要と認められる場合には、日本への在留を認める場合もあるとのこと。
22 第三国定住は、難民を最初の受入国から別の国に送り、そこで定住を認める仕組みだが、日本はこの仕組みを受け入れていない。
- ✕日本は、第一次避難地の難民キャンプに滞在している難民を受け入れる「第三国定住」の制度を始めた。2010年から、ミャンマー難民を受け入れた。第一次避難地の負担を国際的な連帯のもとに軽減するためのものである。現在第三国定住プログラムを受け入れているのは25カ国程度のようだ。基本的に難民の多くは「自主帰還」を果たすことが多いが、「庇護国における社会統合」や、少数ではあれ第三国に「定住」するケースもある。
23 日本への難民の受入れについては、「出入国管理及び難民認定法」にその規定がある。
- 〇日本は、難民条約への加入に当たって、出入国管理及び難民認定法を定め、難民を認定する手続を整えた。
24 日本は、難民条約の採択された年にこの条約に加入した。
25 日本が受け入れた難民の数は欧米主要国に比べると少ないが、そのなかでは、アジア地域からの難民受入数が多数を占めている。
- 〇正文だが、日本の難民受け入れはこれまで欧米諸国と比べてあまりにも少ないことが問題視されてきた。また、難民の認定数が低いだけでなく、認定率が低いことも問題視されている。現在、ウクライナ難民については積極的に受け入れることになったのは、ある意味ではその裏返しでもあろう。
26 日本では、「難民認定申請が却下された外国人」の長期収容が問題となる中、そうした外国人の本国送還を容易にするよう「出入国管理法」が見直された。