【共通テスト対策】フクフクちゃんの現代社会・倫理・政治・経済

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【速修】⑪国際政治・情勢(1)冷戦・雪解け・冷戦再燃・多極化(~1959)

01 第二次大戦後、ポーランドやチェコスロバキアなど東欧世界は、ソ連の勢力下に入った。
  • 独ソ戦を戦い抜いたソ連が、ドイツが支配を拡大させていた東ヨーロッパを「解放」するとともに、一方で勢力下に置いた。こうした「解放」がプーチン大統領の支配拡大の論拠となっている。

 

02 第二次大戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランスの3カ国による分割占領下に置かれた。
  • ✕これに「ソ連」が加わり4カ国の占領支配下。ドイツ全体だけでなく、かつての首都ベルリンも4国による分割占領下に置かれた。その際、「ベルリンの周囲はソ連が支配していた」ことが重要。それが後段で触れる「ベルリン封鎖」の背景となるからである。・・・この文章を読んだだけでは理解できない受験生もいるはず。自分でドイツ・ベルリンの分割略地図を手書きして理解するという手法をとりたいもの

 

03 チャーチルの鉄のカーテン演説にスターリンが反発、自由主義と共産主義の対立が固定化された。

 

04 アメリカはトルーマン・ドクトリンでフランスとイタリアの共産化を防ぐため経済援助を表明した。
  • ✕1947年アメリカの大統領トルーマンは共産圏の「封じ込め政策」を表明。東地中海の「ギリシア」と「トルコ」への経済支援を表明した。言ってみれば防波堤にするためだが、防波堤の地政学的認識を問うために、世界史でも頻出問題となっている。この影響もあり、1952年にギリシャトルコともにNATOに加盟している。日本も東アジアでの共産主義拡大への防波堤にするため援助されたことを想起し、セットで認識しておこう。なお現在ギリシアEUの一員だが、トルコはEUには入っていない。

 

05 アメリカの国務長官マーシャルが、ヨーロッパの復興を支援しようとする支援計画を発表し、東ヨーロッパ諸国もその援助計画を受け入れた。
  • トルーマン・ドクトリンをもとに国務長官マーシャルがヨーロッパ全体に対して経済復興援助計画を提示した。西ヨーロッパは受け入れたが、東ヨーロッパはソ連の圧力で受け入れなかった。ソ連はこの後、1947年コミンフォルム、1949年コメコンと、たて続けに東ヨーロッパへの影響力を強める組織を結成することになる。なお、トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランは時々入れ替えた罠が仕掛けられることがあるので注意。

 

06 東西冷戦が深刻化する中、1948年ソ連が分割管理されていたベルリンの米英仏の管理区域である西ベルリンを封鎖した。これは東西冷戦の初期の象徴的事件であった。
  • 〇ベルリンを囲む周囲を占領していたソ連が、西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件。米英仏は「空輸」でしのいだ。

 

07 ベルリン封鎖後、ベルリンの壁が構築され、東西ドイツが分裂する事態に至った。

 

08 第一次中東戦争がエジプトのスエズ運河国有化宣言に伴って生じた。

 

09 国民党と共産党との内戦が展開されていた中国では、1949年に共産党政権が樹立された。

 

10 朝鮮戦争の勃発がトルーマン・ドクトリンが出されるきっかけとなった

 

11 日本は、日米安全保障条約により警察予備隊を創設した。

 

12 イギリス、フランスがアメリカに働きかけ、NATOが1949年結成された。
  • NATOが西側の軍事同盟として結成されたことは承知のとおりだが、アメリカ主導ではなく、英仏サイドからの働きかけであった。このことはあまり認識されていないかも。そうすると迷うかも。しかし、これは正しい。この結果、アメリカは伝統的な「孤立主義」を捨て、以降、国連憲章で認められた「集団的自衛権」に基づき、日米安保条約、SEATO結成など、ソ連包囲網を形成することになる。なお、1955年には、西ドイツの再軍備が認められNATOに加盟、これに反発したソ連ワルシャワ条約機構WTO)を結成する。

 

13 朝鮮戦争において、アメリカが単独で軍事行動に踏み切った
  • ✕1950年に生じた分断国家を生じさせることになる朝鮮戦争。これは南北の内戦から、資本主義vs社会主義という国際戦争へと拡大した。アメリカは国連での「ソ連の欠席」を利用し「多国籍軍」結成。そのため、「単独ではない」ことになる。その際、正式な「国連軍」ではないことにも注意。一方で、北側を支援したのが中華人民共和国義勇軍(この時期安保理代表権は中華民国にあり、中華人民共和国にはなかった)。ソ連も武器支援で。冷戦どころか、ホットな戦争として大きな被害を出した。1953年に休戦条約が結ばれるが、今なお韓国と北朝鮮は平和条約を締結できていない。そこで韓国ではとりあえず「終戦宣言」を出したい意向あるも進まず。

 

14 1955年、ジュネーブ四巨頭会談を契機に雪解けムードが高まった。
  • 〇1953年 朝鮮戦争終結した年、独裁者スターリンが死去。これを契機に雪解けが進む。この1955年のジュネーブ・・・今でも初期の雪解けの象徴として出題され続けているみたい。今後は▽かな。

 

15 1955年、バンドン会議が開催され、平和10原則が決議された。
  • 〇1955年 戦後10年。平和への希求が高まりアジア・アフリカ会議が開催された。インドネシアの「バンドン」で開催されたこともこれまで何度も問われ続けてきた。なお、その前年に、インド首相ネルーと中国首相周恩来との間で両国の国交の五つの原則が合意され、これが平和10原則へと発展した。

 

16 平和10原則には、内政不干渉、国際紛争の平和的解決などが盛り込まれた。
  • 〇この他「領土と主権の尊重、平和共存、相互不可侵、平等互恵、基本的人権の尊重」なども掲げられた。なお、「米ソ両国の軍拡競争に対抗するため、まず東南アジアを非核地帯として設定し、それを徐々にアジア・アフリカ全域に拡大することが合意された。」「東西の軍事的対立に巻き込まれないように、会議参加国の間で集団安全保障体制を確立することが合意された。」などは✕である。

 

17 雪解けが生じたが、50年代末のベルリンでの対立激化で停滞した。
  • ✕既にみたようにベルリン封鎖は1948。「ベルリンの壁」が築かれだしたのは1961年。従って、この文章は意味不明の✕文章ということになる。たまにこのような意味不明文が交じることがあるので、4択の場合は、他の3題を斟酌しつつ落ち着いて判断しよう。

 

18 1955年、雪解けムードの一方で、NATOに対抗するワルシャワ条約機構という軍事同盟が発足した。
  • 〇以前簡単に触れたが、ワルシャワ条約機構成立の背景に、「西ドイツがNATOに加盟」し、再軍備が許されたことがあった・・・これも知っておこう。ちなみに、ドイツは現在、NATO加盟国ではないと判断する受験生もいるかも・・・実は、ドイツはNATO加盟国で、ロシアのウクライナ侵攻に対して、アメリカが軍を送り込んだのはドイツ。ドイツが受入国ということ。と言うより、冷戦終結後、なぜNATOが残っているかというと、ロシアへの警戒心もあるが、統一ドイツの「ひとり歩き」も警戒し、NATOの枠組みの中に置いておくことが意図されていたとのこと・・・。ドイツはヨーロッパで信頼を取り戻したが、根底にはまだまだ負の歴史が覆いかぶさっているということか。

 

19 1950年代後半になると、東欧諸国でソ連離れが進み、社会主義体制が相次いで崩壊した。 
  • ✕これも意味不明な「とんでもない」誤った歴史認識。確かにハンガリーで1956年反ソ暴動が起きるが、社会主義体制の崩壊はまだまだ先のこと。こうした「とんでもない」問題は現社・政経ならではのものだが、案外、罠にひっかかるので注意。

 

20 第二次中東戦争に際しては、安保理で英・仏が拒否権を行使したため、緊急特別総会で「平和のための結集」決議がなされ、即時停戦が要求された。
  • 〇平和のための結集が決議された最初の事例である。またこの時初めて「PKF」が派遣された。「1950年代半ばに勃発したスエズ動乱第二次中東戦争)では、国連緊急軍(国連平和維持軍)が設立させ、現地に展開した」も正しい。ただし、正規な国連軍ではない。

 

21 1957年核兵器の廃絶を訴えるパグウォッシュ会議が広島で開かれた。

 

22 ソ連の第一書記となったフルシチョフは平和共存政策を提唱し、1959年アメリカを訪問した。
  • 〇何と、東西貿易も復活した。スターリンでは考えられない・・・ソ連・ロシアは時々「とんでもない」人物を生み出す。後のゴルバチョフもしかり。ということでプーチンの後に「期待」。