01 第二次大戦後、ポーランドやチェコスロバキアなど東欧世界は、ソ連の勢力下に入った。
02 第二次大戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランスの3カ国による分割占領下に置かれた。
03 チャーチルの鉄のカーテン演説にスターリンが反発、自由主義と共産主義の対立が固定化された。
04 アメリカはトルーマン・ドクトリンでフランスとイタリアの共産化を防ぐため経済援助を表明した。
05 アメリカの国務長官マーシャルが、ヨーロッパの復興を支援しようとする支援計画を発表し、東ヨーロッパ諸国もその援助計画を受け入れた。
06 東西冷戦が深刻化する中、1948年ソ連が分割管理されていたベルリンの米英仏の管理区域である西ベルリンを封鎖した。これは東西冷戦の初期の象徴的事件であった。
- 〇ベルリンを囲む周囲を占領していたソ連が、西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件。米英仏は「空輸」でしのいだ。
07 ベルリン封鎖後、ベルリンの壁が構築され、東西ドイツが分裂する事態に至った。
08 第一次中東戦争がエジプトのスエズ運河国有化宣言に伴って生じた。
- ✕1948年第一次中東戦争が生じたが、これは、ユダヤ人国家イスラエルに対して周辺のアラブ諸国が攻撃したもの。なお、「第二次世界大戦後、国連総会は、パレスチナ地域にユダヤ人国家の建国を認める決議を採択したが、アラブ人国家の建国は認めなかった。」も✕。国連がパレスチナの地をアラブ人国家とユダヤ人国家に分ける「分割決議案」を採択したことから以降衝突することに。スエズ運河国有化宣言は第二次中東戦争の背景。それは資源ナショナリズムの先駆けとなる動きであったが、1956年のこと。中東戦争は・・・「世は転んで虚しく涙」・・・48 56 67 73 この年号は覚えておくと役に立つ。なお、イスラエルvsパレスティナは現在でも未解決のままであることは承知の通り。
10 朝鮮戦争の勃発がトルーマン・ドクトリンが出されるきっかけとなった
11 日本は、日米安全保障条約により警察予備隊を創設した。
12 イギリス、フランスがアメリカに働きかけ、NATOが1949年結成された。
13 朝鮮戦争において、アメリカが単独で軍事行動に踏み切った
- ✕1950年に生じた分断国家を生じさせることになる朝鮮戦争。これは南北の内戦から、資本主義vs社会主義という国際戦争へと拡大した。アメリカは国連での「ソ連の欠席」を利用し「多国籍軍」結成。そのため、「単独ではない」ことになる。その際、正式な「国連軍」ではないことにも注意。一方で、北側を支援したのが中華人民共和国の義勇軍(この時期安保理代表権は中華民国にあり、中華人民共和国にはなかった)。ソ連も武器支援で。冷戦どころか、ホットな戦争として大きな被害を出した。1953年に休戦条約が結ばれるが、今なお韓国と北朝鮮は平和条約を締結できていない。そこで韓国ではとりあえず「終戦宣言」を出したい意向あるも進まず。
14 1955年、ジュネーブ四巨頭会談を契機に雪解けムードが高まった。
15 1955年、バンドン会議が開催され、平和10原則が決議された。
- 〇1955年 戦後10年。平和への希求が高まりアジア・アフリカ会議が開催された。インドネシアの「バンドン」で開催されたこともこれまで何度も問われ続けてきた。なお、その前年に、インド首相ネルーと中国首相周恩来との間で両国の国交の五つの原則が合意され、これが平和10原則へと発展した。
16 平和10原則には、内政不干渉、国際紛争の平和的解決などが盛り込まれた。
- 〇この他「領土と主権の尊重、平和共存、相互不可侵、平等互恵、基本的人権の尊重」なども掲げられた。なお、「米ソ両国の軍拡競争に対抗するため、まず東南アジアを非核地帯として設定し、それを徐々にアジア・アフリカ全域に拡大することが合意された。」「東西の軍事的対立に巻き込まれないように、会議参加国の間で集団安全保障体制を確立することが合意された。」などは✕である。
17 雪解けが生じたが、50年代末のベルリンでの対立激化で停滞した。
18 1955年、雪解けムードの一方で、NATOに対抗するワルシャワ条約機構という軍事同盟が発足した。
- 〇以前簡単に触れたが、ワルシャワ条約機構成立の背景に、「西ドイツがNATOに加盟」し、再軍備が許されたことがあった・・・これも知っておこう。ちなみに、ドイツは現在、NATO加盟国ではないと判断する受験生もいるかも・・・実は、ドイツはNATO加盟国で、ロシアのウクライナ侵攻に対して、アメリカが軍を送り込んだのはドイツ。ドイツが受入国ということ。と言うより、冷戦終結後、なぜNATOが残っているかというと、ロシアへの警戒心もあるが、統一ドイツの「ひとり歩き」も警戒し、NATOの枠組みの中に置いておくことが意図されていたとのこと・・・。ドイツはヨーロッパで信頼を取り戻したが、根底にはまだまだ負の歴史が覆いかぶさっているということか。
19 1950年代後半になると、東欧諸国でソ連離れが進み、社会主義体制が相次いで崩壊した。
20 第二次中東戦争に際しては、安保理で英・仏が拒否権を行使したため、緊急特別総会で「平和のための結集」決議がなされ、即時停戦が要求された。
21 1957年核兵器の廃絶を訴えるパグウォッシュ会議が広島で開かれた。
22 ソ連の第一書記となったフルシチョフは平和共存政策を提唱し、1959年アメリカを訪問した。