01 多額の不良債権を抱えた銀行が、国際通貨基金(IMF)の自己資本比率規制を満たすため、融資の求めに応じず、貸し渋り現象が発生した。
- ✕文章全体の趣旨は正しいが、自己資本比率規制はIMFではなく国際決済銀行BISの規制。問題の焦点とは違うところに落とし穴。
なお、不良債権の意味を分かっておきたい。債権は、金銭の返却を請求する権利のことだが、不良債権は、債権のうち、その回収が、通常の回収期間に行われず、回収が困難な状態にあるか、困難になる可能性が高いもの。企業倒産などによって発生するが、連帯保証人に請求したり担保を売却して換金したりすることで不良債権を回収できる場合もある。この問題文は、こうした不良債権により、「貸し渋り」現象が発生したというものであるが、「融資をするということは自己資本比率が低下する」ことになるから、ということを理解しておきたい。
02 民間金融機関の保有する不良債権が増加した要因の一つに、土地や有価証券の価格が急騰したことがある。
- ✕急騰ではなく急落。こうしたところに落とし穴があることもあるので注意深くチェック。土地価格や株などの有価証券の価格が低下すると、企業は状況によって返済できなくなり、銀行にとっては、不良債権となる場合があるということ。
03 不良債権問題への対処のため、金融機関に公的資金が注入されたことがあった。
04 バブル崩壊後、日本政府は、金融の機能の安定及び円滑化を図る目的で、経済産業省を設置し、金融機関の不良債権処理を進めた。
05 政府が公的資金を金融機関に注入したことで、銀行が倒産することはなかった。
- 否定文で怪しい。実は銀行も倒産した。バブル崩壊直後より90年代後半から2000年代初頭にかけて多くの金融機関が倒産した。
06 経営不振や経営破綻に陥った日本の銀行や保険会社が、外国企業に買収される事例がみられた。
- 〇保険会社なども外資系に買収されるものもあった。
07 日本に進出した欧米企業は,外国資本に対する株式所有や人員整理に関する特別の規制のため,日本的経営システムを採用した。
- ✕日本の慣行的な規制に対し見直すよう圧力をかけるとともに、外国企業はあくまで自国の経営方針で経営を推進した。郷に入らずんば郷に従え・・・と言って終身雇用制などの日本的経営システムを採用するようなことはあり得ない。
08 相次ぐ金融機関の破綻などを背景に、金融再生法が制定された。
- 〇金融システムを安定化させようとするもので、経営破綻した金融機関の処理方法などを定めた法律あった。
09 金融破綻に対応するため、政府は預金者を保護するためにペイオフ制度を導入した。
- ペイオフというのは、経営破綻した銀行への預金について一定の範囲での払い戻しを保証するもの。言い換えれば、一定の範囲を超えた部分は保証しないということ。1971年から実施されていたが、この時期はそれが凍結された。1996年から2001年まで、預金保険制度により「預金等全額保護」の特例措置が採られた。あまりに金融機関の破綻が相次ぎ、国民の不安に対応するため。
しかし、その後、金融システムの安定化等にともない、2002年に凍結解除、2005年にペイオフが全面解禁されることになる。
なお、2010年に初めてペイオフが実施された。日本振興銀行の破綻に適用されたが、振興銀は一般の銀行と異なり、取り扱う預金の種類が運用目的の定期預金だけで、預金者への影響は少ないし、公的資金を投入するには国民の理解が得られないと判断したとのこと。
10 バブル経済の崩壊直後、地価の下落をうけ、政府は、住宅取得に関する税制上の優遇措置を廃止した。
- ✕地価が下がるとチャンスだと思い、新規住宅取得が増えるので、廃止したというところであろうか?しかし、そういう規制をすると、いよいよ地価は下落する。むしろ、地価下落で土地を売るに売れない状況の中、地価のより一層の下落を防ぐため、住宅取得を推進するため優遇措置を「継続」した。
11 1980年代には財政改革が進み、90年代初頭には赤字国債が発行されない年もあったが、バブル経済の破綻に続く不況の中で、再び、発行額は大幅に増加した。
12 1990年代末の公定歩合は、バブル経済のときに次いで戦後二番目に低い水準にまで下がったが、企業の資金調達は楽ではなかった。
- ✕「バブル経済のときに次いで戦後二番目に低い水準」ということだが、実際はバブル経済時以上の低金利とした。バブル経済を発生させた時の公定歩合は2.5%。これはプラザ合意後の円高不況を想定してのものであったが、バブル崩壊後は、1%を下回った。1999年からはいわゆるゼロ金利政策となった。となると「戦後最も低い水準に下がった」というのが正しい。
また、前段と後段の論理的な整合性についても悩ましい。金利は下がっても、中小企業あたりは資金調達しようとする体力自体がなかったのでは・・・と思うと、正しい。一方で、企業の資金調達は多様化し、社債など有価証券発行による資金調達が増加してきたという側面もあり、その意味では、必ずしも企業の資金調達が難儀したとも言えないような気もする。となると、前段勝負ができないと、判断できない問題でもあった。
13 低金利政策は不良債権を抱える金融機関の負担を軽減したが、一方、零細な預金を頼りにする高齢者や年金生活者には大きな痛手となった。
- 〇金利が低くなったということは、後段は〇と判断できるが、前段はやっかい。「低金利政策は不良債権を抱える金融機関の負担を軽減した」とあるが、「不良債権」を「借金」と読み替え、低い金利の借金に換えると、その分、借金自体は軽くなる・・・と、考えてみることはできないだろうか?
インフレのとき喜ぶのはどっち?を想起したい。インフレは貨幣価値が低下することだが、そうなると預金を頼りにしていた高齢者にとっては痛手、逆にローンをして家を建てた現役組については、ローンの負担感が減る。これを「援用」すれば、〇と判断できないだろうか?
でも、やはりこれは難しい。とりあえず判断中止で、他の問題で勝負してもよいかも。繰り返しになるかも知れないが、ある一文を〇か✕か常に確定しようなんて思わないで、言い換えれば、間違い探しに囚われないで、4択で、一個だけの正解にたどり着けばよいと・・・ゆったりと構えることも必要。この問題なども、とりあえずは括弧に入れておこう。
14 バブル崩壊後、企業のリストラ(事業の再構築)が進み、有効求人倍率も低迷し続けたので、日本全体の失業率は悪化した。
- 〇企業は生き残りをかけてリストラを進めた。リストラは本来的には事業の再構築ではあるが、経営合理化を建前とする「解雇」でもあった。そのため、失業率は90年代後半から悪化していった。
15 多くの企業が、契約社員や派遣労働者など非正規雇用労働者の数を減少させる行動をとった。
- ✕リストラにより「非正規」がむしろ増えた。
16 バブル崩壊後の日本においては、自己破産の増加や多重債務の問題に対応するために、貸金業法が改正された。
- 〇時代的には2000年代のことであるが、文章自体は正しいので〇とさせてもらった。
17 消費の低迷に加え、銀行による貸出し抑制などがあって、日本経済は次第にデフレーションの色彩を強めた。
- 〇バブル崩壊後の「結末」がこの文章である。
デフレ自体は、「物価が持続的に下落する」ことであるが、「需要が供給を下回るようになった」結果として生じてくる。消費意欲が低迷し需要が減少、企業の生産活動が衰え設備投資などの需要が減少すると、デフレとなり、モノの値段が下がると企業の収益が悪化するため「不景気」となる。デフレと景気の悪化(実体経済の縮小)が相互に作用して、螺旋階段を下っていくかのようにどんどん下落していくデフレ・スパイラルという現象も生じた。こうした不景気の状況に対して、一般的には、1991年から2002年の間までを「失われた10年(lost decade)」と呼ぶ。教科書用語ではないので、この言葉は使われないかもしれないが、知っておきたい。
なお、その最中の1993年に55年体制が崩壊、政治的にも大きな転換を迎えたことも併せてインプットしておこう。
18 1990年代のアメリカ経済は、IT(情報技術)革命が急速に進展する中で、長期の景気拡大を実現していた。
19 1990年代に日本を含め、外国企業の中国への進出件数が急増したのは,中国がWTO(世界貿易機関)に加盟したことによる。
20 日本版金融ビッグバンの原則の一つは、自由な競争の促進であり、金融機関同士の競争によって金融の効率性を高めようとした。
- 〇バブル崩壊後の混乱の中、1996年に金融改革が行われた。1998年には既に触れたように金融監督庁が設置された。
21 バブル経済の崩壊の影響から、日本企業は輸出競争力を大幅に低下させ、また政府は不況対策のために公共事業の支出を強いられたので、日本の経常収支と財政収支は、赤字に転落した。
22 日本の経常収支は、80年代には大幅な黒字であったのに対して、90年代の不況期に入ってからは赤字に転じた。