【共通テスト対策】フクフクちゃんの公共(現代社会)・倫理・政治・経済

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30年間の日本の政治変遷をスケッチしておこう②

② 政界再編成と「連立」の時代・・・一時「小泉劇場

前回触れた大転換は自民党の長期政権故の政治腐敗への「国民からの異議申し立て」の結果ではあったが、他方では、「政党の離合集散」という、国民の意思とは離れたところでの政権交代という側面もあった。また、「自民党の分裂」だけではなく、1989年に「冷戦が終結」し、「資本主義vs共産主義自由主義vs社会主義」というイデオロギー的対立が消滅したことで、野党第一党を維持してきた「社会党の解体」の始まりでもあった。
しかし、結果として、脆弱な「非自民の結集」であった細川連立政権も長くは続かず、「政界再編成」の時代へと移ることになる。

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・連立で政権を握った細川内閣は、自らの政治資金の問題や政権内の各党の対立等により9カ月足らずで幕を下ろす。
 ただし、懸案であった選挙制度改革を実現させ1993年、衆議院は「小選挙区比例代表並立制」となり、これが後の2009年、今から15年前の政権交代のバックボーンの一つとなる。

・続いて新生党の羽田内閣が成立したが、社会党が直前に離脱したため、現在と同様に「少数与党」としてスタートする。そのためもあって2カ月という短命で崩壊。自民党から内閣不信任案が出され、社会党も賛成に回り、賛成多数で可決される見込みになったため「総辞職」に追い込まれ、非自民政権は短期間で瓦解することになる。

・では、その後どうなったかと言うと、何と、自民党が、政権から離脱した日本社会党及び「さきがけ」と連立を組むことで政権復帰を果たすことになる。これを機に自民党も「連立」という手段をとることになるが、冷戦終結を背景とし、従来の保革対立が和らいだとしても、これまで対峙してきた社会党との連立は一種の「荒技」で、多くの有権者に違和感をもって受け止められた。
この時の首相には、自民党からではなく、日本社会党の党首が就任、村山首相となったが、この時も連立は「過半数」ではなかったため、首班指名は「決選投票」となった。で、今回の石破政権の発足は、この時以来30年ぶりの決選投票となった・・・などと引き合いに出される訳である。
なお、細川政権と同様、この時も社会党という第一党ではない政党から首相が選出された訳だが、実は今回も、第三党に躍進しキャスティングボードを握ったとされる「国民民主党」が与党に参加すれば、国民民主党の党首誕生ということもあり得た。その事態にはならなかった訳だが、「多数派工作」「政党の離合集散」などによって、国民の意思とは離れたところでの政権樹立もあり得るということを示した事例であろう。

・1947年以来二度目の社会党からの首相となった村山首相だが、ある意味では誠実な判断を下した。米軍基地問題不良債権問題など国内外の難題に対応するためには、「憲政の常道」にのっとって与党第一党である自民党総裁に政権を「禅譲」すべきだと判断したからである。代わって自民党の橋本総裁が首相となった。なお、この後、社会党は伝統の党名を「社会民主党」に変更するが、以降「社会民主党」は凋落、現在では極小政党になってしまっている。

・一方、政権に返り咲いた自民党は、橋本首相のもと自民党単独の過半数をめざして衆議院を解散(7条解散)、1996年、第41回衆議院議員総選挙(投票率59.65)となった。小選挙区比例並立制での初めての選挙となったが、自民党は、議席数は伸ばすも、過半数には届かず。ただし、社会民主党新党さきがけ議席を減らしたため2党は「閣外協力」に回り、形の上では単独政権となった。しかし、デフレスパイラルなどの景気の低迷が続く中、1998年の参議院選挙で自民党が惨敗、参議院では非自民の方が多くなり、衆参両院で多数派が異なるといういわゆる「ねじれ国会」となった(2001年まで)。これは戦後の混乱を除けば、1989年以来、二度目のことであったが、これを受け橋本政権は退陣。一方で、選挙直前に結党したばかりの民主党は27議席と躍進。自民の対抗勢力として地歩を固めていくことになる。

・橋本退陣を受けて自民党は小渕自民党総裁が選出されたが、「ねじれ国会」のもと、首相を選ぶ「臨時国会」では、衆議院では小渕自民党総裁参議院では決戦投票で民主党の菅党首が首相に指名されるというねじれが生じた。両院協議会が開かれたが合意に至らず、憲法67条二項の規定によって小渕自民党総裁の首相就任が決まった。小渕首相は、政権運営のため公明党との「連立」政権を組んだ。公明党は1964年の結党以来、「非自民」を貫いていたが、これ以降は現在まで、自民党との「連立」が続いている。

・2000年小渕首相が急逝、代わって森内閣が成立。森首相については、先般の東京オリンピック組織委員会の会長であったこともあり受験生諸君もよく知っていることと思う。女性蔑視発言で辞任した訳だが、この時も森首相の「神の国」発言に反発した野党が不信任案を提出、これに対して森首相は、任期満了を待たず、「解散」総選挙に踏み切り(7条解散)、第42回衆議院議員総選挙(投票率62.49)となった。
ところが、与党三党(自民党公明党・保守党)はいずれも議席を減らし、自民党自体も単独過半数を割り込んだ。一方で第一野党の民主党が都市部で躍進し、議席数を95から127へ増やした。さらに2001年には以前からの失言などと相まって内閣支持率が急激に低下し、森首相は辞任し内閣は総辞職。

・代わって成立したのが小泉政権。受験生諸君にとっては、その息子の進次郎議員ならよく知っているとは思うが、父親の純一郎議員が首相に選出され、以降「構造改革」を掲げ、新自由主義の政策を断行、2006年までの「5年半」に及ぶ長期政権を維持した。この間、一方で「格差社会」が進み、日本社会が大きく変貌していくが、この陰の部分は別のところで触れなおすことにして、他方で、国民からの人気は高く、発足当時の内閣支持率は戦後最も高い数値を記録し、期待感は強かった。
実際、2001年の参議院選挙で自民党が大勝し、「ねじれ国会」を解消させた。ただし、2003年の第43回衆議院議員総選挙(7条解散) (投票率59.86)では、やはり、自民党単独過半数を確保できず、公明党と後に保守新党を吸収して何とか過半数を確保したにすぎなかった。一方で民主党議席数を177へ増やした。
2004年の参議院選挙でも、自民党より民主党の方が1議席多くなり、自民党公明党との連立で多数派を維持するだけであった。この責任をとって幹事長が辞任する。それが後の安倍首相であった。

・それでも参議院選挙を何とか乗り切った小泉首相、その「改革の本丸」は郵政民営化であった。しかし、自民党内に多くの反対勢力がいた。参議院で民営化法案が否決されると、小泉首相は2005年「解散」総選挙(7条解散)に打って出る。今回の選挙では、裏金問題にかかわった議員の公認をめぐる是非が話題となったが、この時の小泉政権は、何と、郵政改革法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を送り込む戦術を展開した。反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略の効果もあって、第44回衆議院議員総選挙(投票率67.51)では自民党が翻って圧勝し、299議席単独過半数を大きく超え、公明党と合わせると与党は327議席を獲得することとなった。「3分の2」を超えた圧勝であった。一方、民主党は113議席と停滞した。
再び首班指名された小泉首相郵政民営化法案を参議院でも通過させ、自民党総裁任期満了の2006年の9月まで政権を継続させた。後の選挙には出馬せず政界を引退。

・後継は安倍首相であったが、2007年の参議院選挙で自民党は大敗、再び「ねじれ国会」となる。
2005年の衆議院では自民党が圧勝した訳だが、よく「勝負は水物」と言われるように、選挙も、そのときの条件によって変わりやすく、予想しにくい。この時は閣僚のスキャンダルなどもあったが、「小泉劇場」の時のような熱が冷めたのか、国民の第一次安倍政権に対する評価は低く、そこに安倍首相の体調不良が加わり、短命に終わってしまった。
そして、その後、福田首相麻生首相が引き継ぐが、これらも、およそ1年の短命政権で終わる。「ねじれ国会」の中、福田首相の時には、参議院で首相に対する「問責決議」が可決されるという事態も。これは現在の憲法のもと、初めてのことであった。麻生首相の時には、衆議院の任期は4年、2009年9月になると任期満了。そうした中、2009年8月、麻生首相は「解散」総選挙を選択。
で、結果はどうであったか。受験生諸君も知っての通り、自民党は1955年の結党以来、初めて衆議院第1党を失うという事態に。民主党が圧倒的な数で勝利、本格的な「政権交代」が生じることになった。今から「15年前」のことである。