【今日の時事問題】2022年参議院選挙と日本政治史の鳥瞰
参議院選挙の結果を受けて、これまでの日本政治史を鳥瞰してみる
7月10日参議院選挙が行われて、もう3週間も経ってしまった。時事問題と銘打ちながら、ここのところ筆が進まず、申し訳なく思っている。
結果を再確認しておこう。一言で言えば、自民党の圧勝であった。一党独裁ではないが、「一強多弱」の状況。安部前首相が直前に凶弾に倒れたことも自民党を後押ししたのではないかとか、野党が共闘できなかったことも一因であろうとか、様々な分析がなされている。が、結局は、日本の場合、「二大政党」という「緊張関係のある政治状況」になりきれていないことが要因であろう。その背景に、自民党が国民の幅広い層から支持を受けるために、総花的な政策を掲げた「包括政党」であり続けている・・・という状況があるのではないか。
受験生諸君・・・言っている意味が分かるであろうか?自民党というのはある意味「懐が広く」、様々な考え方の議員がいる。保守派もいればリベラル派もいる。もし、その自民党が分裂し政界が再編され、自民党とは別の、大胆な政策転換を掲げる野党が出現し、二大政党になれば、もっと政治が、国民に寄り添うものになるのだが・・・ということである。
二大政党制のメリット
二大政党制のメリットは
・政策上の争点(対立図式)が明確になりやすい
→そうなると国民にも分かりやすく、政治参加を後押しする。
・政権交代が現実的に可能であるため、国民の判断で、政治が大きく刷新される可能性がある。
・国民の支持を背景に、「不都合な真実」があればそれを暴き、大胆な政策転換にチャレンジしやすい。
もちろんデメリットもない訳ではないが、閉塞状況が続く中、政治を刷新するような野党の出現を期待する国民も多いのではないか。
でもそれも現状では期待薄。その結果、「現状肯定」というかたちで終わったのではないか。
ただし、かつては、かなり緊張感のある政治状況であったこともあった。
以下は、共通テストでも出題される可能性がある「政治史」なので、受験生はぜひインプットしておこう。
日本の「政治史」
大正時代 「憲政の常道」
「二大政党の党首が交互に首相となること」を立憲政治の当然のあり方とする考え方はと呼ばれた。
※ 議会・政党の意思に制約されることなく政治を行った藩閥・官僚内閣に対抗して、大正時代、第一次護憲運動の時に主張された考え方で、1924年の加藤高明内閣から32年の犬養毅内閣崩壊まで続いたもので、立憲政友会と憲政会の二大政党の総裁が交代で内閣を組織。
犬養毅暗殺によって終わりを告げたが、かつては、このような体制もあったということも知っておきたい。
ただし、これは国民が選択して政権交代させたものではない。あくまで、内閣が行き詰まり退陣、総辞職した場合は野党に政権を移すというもの。この点は勘違いしないように。
1955~ 55年体制
戦後に成立した55年体制とは、1955年に自民党と日本社会党の二大政党が誕生し、以降、保守・革新の二大政党による政権争いが行われることになった対立図式のことを言う。
※ 左右に別れていた社会党が統一され、その後、日本民主党と自由党が合同し、自由民主党が結成され(保守合同)、この結果55年体制が成立した。
ただし、「二大政党による政権交代」ではない。自民党は1993年まで与党であり続け、実質的には55年体制は自民党一党優位体制であった。
一方で、55年体制のもとでは、自民党内の派閥間での抗争が激しく、派閥間で政権交代が行われたという特徴があった。
1993~ 55年体制の崩壊
1993年、55年体制が崩壊し、非自民・非共産の8党派の細川「連立内閣」が成立した。
55年以降では自民党は結党以来初めて政権与党の座を譲ることになった。
※ バブルの崩壊に加え、リクルート事件などスキャンダルが続発する中、自民党が分裂し、宮沢内閣に対する内閣不信任案が可決された。宮沢首相は衆議院を解散し、国民に信を問う総選挙に打って出た。
しかし、自民党は「第一党」自体は維持したが、過半数割れし、40年近く続いた政権を失った。成熟した民主主義国家なら当たり前の政権交代が、ようやく実現した瞬間であった。
ただし、自民党の長期政権故の政治腐敗への国民からの異議申し立ての結果ではあったが、政党の離合集散という、国民の意思とは離れたところの政権交代であった。連立で政権を握った細川内閣は、政権内の各党の対立等により9カ月足らずで幕を下ろし、続く新生党の羽田内閣も、社会党と新党さきがけが政権を離脱したため、2カ月で崩壊した。
1994~ 自民党の政権復帰
自民党はその後日本社会党と連立を組むことで政権復帰する。この時の首相には日本社会党の党首が就任した。
※ 冷戦終結を背景とし、従来の保革対立が和らいだことが連立の背景の一つだが、自民党と社会党との連立は一種の「荒技」で、多くの有権者に違和感をもって受け止められた。
第一党ではない政党から首相が出たことが試験に問われたことがあるが、第一党党首が首相になるイギリスではあり得ないこと。
「内閣総理大臣は、最大議席を有する政党から選出しなくてもよい。」
これは日本では○ということになる。
なお、政権の中枢に返り咲いた自民党は、その後、首相ポストを奪還、橋本内閣が成立し、1999年からは連立相手を「公明党」に変えて政権の座を維持することになる。この間、小泉内閣、第一次安倍内閣などが成立しているが、一方で、「ねじれ国会」が生じたりもしていた。1998年金融機関が破綻するなど景気減速感の深まる中、参議院選挙後自民党が過半数割れ。翌年の自民、公明両党などの連立政権発足のきっかけとなった。2007年は、安倍第一次政権下、年金記録問題、閣僚の不祥事等が相次ぐなか参議院選挙で民主党が第1党に。これが後の「本格的な」政権交代の伏線となる。
2009~民主党政権
2009年、衆議院で「民主党」が第一党となり、本格的な政権交代が実現した。社民党・国民新党とともに連立与党を形成したが、2012年の総選挙で大敗し、短命に終わった。
※ 民主党は「民主リベラル」と「保守中道」を組み合わせた「民主中道」という基本理
念を掲げ、個人の自由や多様性を重んじつつ穏健な革新をめざした政党。現在民主党は解体されてしまっているので、問われることはないかも知れないが、「保守・中道右派」を自認する自民党に対して、主に海外メディアからはリベラル・中道左派の政党と位置付けられていた。「リーマンショック」を背景に、政権を託されたが、普天間基地問題や尖閣諸島問題、東日本大震災への対応で国民の信頼を失い、その政権は短命に終わった。
2012~ 第二次安倍政権
2012年自民党が公明党との連立で再び政権を奪取した。そこで成立したのが、戦後最長となった第二次安倍政権である。
※ 今から10年前のことである。今後、安倍政権の功罪が検討されることになると思われるが、この間、自民党に対抗できる野党は出現せず・・・。「一強多弱」の状況。支持する政党がないという「無党派層」が最も多いという、政治離れが進んでしまっている。様々な課題を抱えている日本社会、それを一つ一つ国民と共に考え、政策としてまとめあげ推進していくリーダーと、それを支える「若き力」が求められている。
最重要項目
以上、重要なポイントを挙げてみたが、今一度、最重要ポイントをピックアップしておこう
●政党政治 重要な転換点3つ
この流れと背景としての
・冷戦の深まり
・冷戦の終結
・リーマンショック
あたりも結び付けて覚えておこう。