【速修】倫理の正誤問題 ②倫理思想(3)現代思想
42 マルクスは資本主義の下では、労働者は生産物や自分自身から疎外されると主張した。
- 〇マルクスは、人間の本質を「労働」に求め、本来人間は労働を通じて他者と連帯する「類的存在」であったが、資本主義社会では、労働者が労働の喜びや生きがいを奪われ、労働が単なる生存の手段となっている、「労働の疎外」が生じてしまっていると警笛を鳴らした。労働が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れることが「疎外」の意味。
43 キルケゴールは、絶望からの救済を求めるのならば、単独者としての信仰を捨てるように説いた。
44 ニーチェは、現代をニヒリズムの時代として捉え、「神は死んだ」と表現した。
45 ニーチェは、「アンガジュマン」という言葉を用いて、社会参加の重要性を主張した。
46 ハイデッガーは、人間は、死を避けることができない「死への存在」であることに気付くことによって、自己の本来的な生き方を取り戻すことができるとした。
- 〇「死への存在」といえばハイデッガー。日常に埋没したあり方に疑問をもち、自分が「死への存在」であることを直視し、「良心の呼び声」に耳を傾け、自分の置かれた状況を引き受ければ、本来の自己に立ち返ることができると説いた。
47 ヤスパースは、他者の他者性は「顔」として現れ、自己には、この「顔」による他者の問いかけに応答する責任があると説いた。
48 自分の行いを正当化する価値を自明のものとして見いだすことのできない状況について、サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と述べている。
- 〇サルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という名言は知っているとは思うが、これが「自分の行いを正当化する価値を自明のものとして見いだすことのできない状況」という判断は実はとても難しい。だが、これは正しい。
『実存主義とは何か』でサルトルは以下のように言う。「人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうして我々は、我々の背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上も持ってはいないのである。我々は逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。」( 人文書院、伊吹 武彦訳)。
通常はもっと簡潔に次のように解説する。サルトルは、「実存は本質に先立つ」、つまり人間は道具と違って最初から本質が規定されている訳ではない、偶然にも世界に投げ出され、その本質は非決定的で、いつでも自らをつくり自らを 選択することができる、その意味で人間は自由であるが、さらに言えば「自由の刑に処されている」と説いた・・・この程度。
で、何が言いたいかというと、現社で、「自分の行いを正当化する価値を自明のものとして見いだすことのできない状況」といったところに、落とし穴など作るはずはない・・・そんなところに引っかかりを感じずに、サルトル・「人間は自由の刑に処せられている」で〇と判断でいいのでは・・・ということである。あまり深入りしない方が無難。ただ、サルトルとなると、もう一つインプットしておかねばならない用語がある。そう、アンガージュマン。
以下が私なりの解説である。・・・「人間は自由の刑に処せられている」。それ故に、不安も生まれる。しかし、その不安にたえ、主体的な決断をすることこそ、本来的な人間の生き方であり、しかも、自己の自由なる選択は、自己自身のみならず全人類を拘束「(アンガージュ)」し、その中に参加「(アンガージュ)」させている。従って、自己の自由なる選択は責任を伴い、他者の自由をも尊重した自由の連帯性のうちに生きていかなくてはならない。その意味で、「実存主義はヒューマニズム」である・・・。
49 デューイは、現実の生活における具体的な問題を把握して、社会を改善へと導いていくような知性が重要であると論じた。
- 〇アメリカで花咲いたプラグマのティズム。デューイは、知性を「道具」として「生活環境を改善する」ことが大事だとする「道具主義」の立場をとった。形而上学的議論ではなく、「創造的知性」(日常生活で直面する問題を解決する能力)を大切にした。
なお、先駆者としてのパース、ジェームズも一応確認しておこう。パースは思考ではなく「行為」(プラグマ)を重視、ジェームズは結果として「いかに生活に役立つか」が大事という「有用主義」。いずれもヨーロッパの形而上学を否定。なお、形而上学とはアリストテレスがMetaphysika と呼び、自然学(physika)の後(meta)に置いた根本の哲学という言葉の邦訳で、辞書的には「形(現象)を超えた」学という意味。絶対者や絶対的真理など宇宙の根本原理などを探求する学問。プラグマティズムは日常の実用的な生活改善を志向した。
50 ブライスは、地方自治は民主主義の最良の学校であるとして、地方自治を確立することが、民主主義を実現する上での基礎であることを主張した。
- 〇イギリスの法学者。倫理分野というより政治で頻出。
51 リースマンは、他人の考えや行動を自分の行動基準として、周囲に同調しようとする人々の傾向を、「他人指向型」と呼んだ。
52 リースマンは、人々の社会的性格が、「伝統指向型」や「他人指向型」から、「内部指向型」へと変わりつつあることを説明した。
53 トックビルは、自分自身の考えや信念よりも、むしろ周囲の意見や評価を基準にして生きる大衆の社会的性格について、著書『孤独な群衆』のなかで論じている。
- ✕「他人指向型」に変わった。
54 ハーバーマスは、近代人にとって自由は重荷と感じられ、自発的に服従を望むようになることがあるとして、これを「自由からの逃走」と名づけた。
- ✕「自由からの逃走」はフロム。
55 フロムは、自由の重荷に耐えられない人々が自分を拘束する権威を求めることで、ファシズムの発展が促されたことについて、著書『自由からの逃走』のなかで論じている。
- 〇フロムもリースマンと並んでこれまで何度も出題されている。
56 フロムは、宗教的・経済的・政治的な権力からの解放である「…からの自由」にとどまらず、自ら主体的に行動する「…への自由」を主張した。
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〇フロムは、大衆は自由のもたらす孤独感と無力感に耐えきれず、自由を放棄し権威に盲従していると批判した。また、抑圧や強制からの自由だけでなく(→消極的自由)、主体的に自己の行為を選択する「積極的な自由」の重要性を説いている。このあたりは教科書には記載がない場合もあるが、流れからして間違いではなかろうと判断したい。
57 権力や権威に追従しつつ、弱者に対しては攻撃的に振る舞う性格を、ウェーバーは「権威主義的パーソナリティ」と定式化した。
58 ハーバーマスは、公共性に根ざした合意を目指す対話的理性には、理性的な社会秩序を構築する可能性があるとして、コミュニケーション的行為の理論を唱えた。
59 ハーバーマスは、「コミュニケーション的行為」により、人々が対等な立場で自由に討議し、合意に至ることのできる、近代的理性の可能性を追求しようとした。
- 〇ハーバーマスは「合意」形成は自由な「対話」を通して実現されるが、それは一方で「強制なき合意」であるとした。
60 ホルクハイマーは、生まれつき裕福な人々は、貧者の状況を改善するという条件の下でのみ、自らの利益を獲得できるという正義の原理を主張した。
- ✕これはロールズの考え方。
61 M.ホルクハイマーは、福祉が目指す方向として、潜在能力が確保される平等を重視した。
- ✕これはセンの考え方。
62 アドルノは、個人の自由への規制は、他者に危害が及ぶのを防ぐ場合に限られるという原則を主張した。
- ✕これはj.s.ミルの考え方。
64 アドルノは、権威に対しては無批判に従い、弱者には服従を強要する傾向を、権威主義的パーソナリティの特徴の一つとして挙げた。
66 レヴィ=ストロースは、未開社会の呪術的な思考のなかに「野生の思考」を見いだし、西洋近代を優位とする考え方を批判した。
67 フーコーは、道徳の主体としての人間を人格と呼び、互いの人格を目的として尊重し合う社会を「目的の国(目的の王国)」と名づけた。
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✕「目的の王国」は無論カント。
フーコーについては以下の三点を抑えておこう。
①歴史の中に埋もれている構造を発掘する知の考古学を推進、各時代で異なる考え方の特徴である「エピステーメー」を抽出し、人間を主体とみなす考え方は、近代の発明に過ぎないとした。
②「理性」を尺度とし、病気や狂気、犯罪といった「反理性的なものを排除」してきた近代のエスピテーメーと、病院、監獄、学校などが、それに加担し、近代的秩序から逸脱することを「異常」とみなす価値観を広め、そのような価値観に無意識のうちに服従し、「権力」関係を再生産していく「主体」としての人間を痛烈に批判した。
③「神は死んだ」というニーチェの眼差しを引き継ぎ、主体的な人間というものは妄想でしかないとし、「人間の終焉」を予告した。
69 シュヴァイツァーは、すべての生命あるものを敬い、大切にする「生命への畏敬」の倫理を説いた。
- 〇人間中心主義に異議申し立て。
70 マザー・テレサは、愛と奉仕の精神に基づき、貧困や病気で苦しむ人々の支援を行い、生命の尊さを説いた。
- 〇愛の反対は無関心である・・・という言葉も有名。
71 ボーヴォワールは「ひとは女に生まれない。女になるのだ」と、特定の生き方を強いられる女性を解放しようと努めた。
72 J.ロールズは、恵まれない人々の状況が改善されるという条件のもとでのみ、生まれつき恵まれた人々がその利益を得ることが許容されるという考え方を示した。
- 〇ロールズはまずは、基本的権利は平等に分配すべきだが、一方では、「不平等のほうが正義に適う場合もある」と考えた。公正な「機会均等」を達成するために、「不遇な者の境遇改善のための」不平等は是認できるとし、問題文にあるように、「恵まれない人々の状況が改善されるという条件のもとでのみ、生まれつき恵まれた人々がその利益を得ることが許容されるという考え方を示した。」なかなかややっこしい言い回しだが、要するに、「合理的配慮の必要性を認めた」と捉えておこう。
73 J.ロールズは、社会の富や所得の不平等を改善する上で、生産の効率を重視する必要性を主張した。
- ✕ロールズの主張ではないが、そもそも「生産の効率」なんてなものは不平等改善につながるとは思われないる
74 ロールズは、公正としての正義という概念を定式化し、機会均等などの条件が満たされない限り、格差や不平等は容認されるべきではないと考えた。
- 〇この文章も誤りではないが、機会均等だけでなく、「結果の平等」≒実質的平等の実現を求めたのがロールズであった。ある意味では、アファーマティブ・アクションを哲学的に基礎づけたとも言える。
なお、ロールズについては「無知のヴェール」というキーワードも出題される可能性がある。これは自分自身の位置や立場を全く知らない状態という状態で、この状態の時は、全ての人の被害を最小化する「正義の選択」をするのではないかとロールズが考えた、この仮定のもとに、正義の選択としての合理的配慮を主張した。
75 A.センは、豊かな生活の実現を考える上で、人間の潜在能力(ケイパビリティ)に着目する必要性を主張した。
- 〇ロールズの正義論が財の再配分に偏重していると批判し、センは潜在能力(ケイパビリティ)というキーワードを掲げる。人生の選択肢を広げるために必要なこと、健康であること、教育を受ける等、この潜在能力(ケイパビリティ)という概念により福祉のあるべき姿を提示。国際的には、潜在能力の開発を含む「人間の安全保障」を提唱。