【共通テスト対策】フクフクちゃんの現代社会・倫理・政治・経済

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【速修】経済の正誤問題 ⑧日本経済のあゆみ(2)高度成長期

01 好況期に国際収支が悪化し、外貨準備高が減少したため、政府が景気抑制策をとり、景気が悪化することがあった。
  • 〇当時は外貨準備高が少なく、いわゆる「国際収支の天井」という、国際収支の状況で、それ以上海外のものを購入できなくなるという事態が生じた。外貨準備高が減少すれば国際収支は悪化と捉えられ、そのため、景気抑制策をとらざるを得なかった。
    なお、その後は、国際収支は外貨準備高以外の様々な側面を総合的に斟酌するようになり、その一側面である貿易収支が赤字になったとか、経常収支は一方で黒字であるとか、個別の側面について黒字、赤字を言及するのが一般的となった。

 

02 神武景気や岩戸景気の後に生じた不況は、好況時に悪化した国際収支を改善するための金融引締め政策が一因となってもたらされた。
  • 〇この文の正誤判断は案外、なかなかやっかいだったかも。
    丁寧に確認すると、まず、景気が良く消費意欲が高まり輸入過剰になると、貿易収支が赤字となる場合がある。変動為替相場制なら、輸出<輸入の場合、円をドルに替えて支払うため、ドル高円安になり、円の購買力が下がり輸入に制限をかけることになる。
    しかし、この時期は、「固定為替相場制」である。そこで、政府は景気抑制政策として、金融の引き締め、当時で言うところの「公定歩合」をあげる政策に出た。そのため高度経済成長の前半では、好景気は長くは続かなかった。これが問題文の「神武景気岩戸景気の後に生じた不況」の背景である。
    ただ、ここまで丁寧に確認できなくても、とりあえず、高度経済成長の前半は、「国際収支の天井」という課題があったため好景気は長く続かなかったという知識さえあれば、何とか〇と判断できるのでは。

 

03 政府は、10年間で実質国民総生産を2倍にするという、国民所得倍増計画を策定した。
  • 〇1960年 戦後復興期の大きな転換点となった。当初の目標であった10年間よりも短い期間で達成された。

 

04 長期で大型のいざなぎ景気は、日本列島改造論に基づく大規模な公共投資が一因となってもたらされた。
  • いざなぎ景気の背景は1965年から70年までの長期にわたった好景気であるが、「輸出の拡大」が背景である。
    日本列島改造論は1972年で、「地価上昇インフレ」をまねいた。

 

05 高度経済成長期の前半には、貿易収支は赤字基調であった。
  • 〇大雑把な捉え方ではあるが間違いではない。
    なお、後半は黒字基調となり、アメリカと貿易摩擦が生じることになる。

 

06 高度経済成長期の後半には、軽工業品の輸出増加が貿易黒字増加の主要因となった。
  • 軽工業ではなく、「造船などの重化学工業」が発展した。受験生にとっては遠い過去の話だが、かつては重化学工業を中核とした「太平洋ベルト」地帯が、日本産業を牽引していた。

 

07 石炭、鉄鉱石などの安価な資源が、主として地理的に近い中国、ソ連から大量に輸入されたことで、日本製品の価格低下が実現し、輸出増加に貢献した。
  • ✕冷戦構造の中、ソ連、中国とのやり取りはない。アメリカやオーストラリアが中心。
    ただし、一方で海外の資源に依拠した「重厚長大産業」は、後にかげりを迎えることになる。

 

08 団塊の世代と呼ばれた世代の中卒就職者は、「金の卵」と呼ばれ労働集約型の工業を支えた。
  • 団塊の世代とは第二次世界大戦直後のベビーブームで誕生した世代。ここで難しいのが「労働集約型」に関する判断。これは、人間の労働力に頼る割合が大きい産業のことで、機械化が進む以前の製造業や、現在の介護産業などが労働集約型産業。また頭脳労働や知識労働が事業の中心となる知識集約型産業もその一形態。これに対して、大規模なインフラ整備が必要である電気産業やガス産業は資本集約型産業と言われる。このあたり教科書では詳しくは触れられないが、思考力問題として出題される可能性があるので、理解しておこう。

 

09 この時期、設備投資のための民間企業の資金需要が拡大したが、この資金の大部分は外国資本の導入によって調達された。
  • ✕このあたりは知識というより感覚かな。この時期、外国資本が基盤であったとは考えにくいな・・・という感覚。これがあれば怪しいと判断できるのでは。一方で、高度経済成長を支えたのが国民の「預金」であったという知識があればより簡単に✕と判断できる。

 

10 高い貯蓄率に支えられて、銀行が設備投資資金の供給を拡大した。
  • 〇と言うことで、かつては高い貯蓄率が日本経済を支えていたが、今は、貯蓄から投資へとシフトしつつある。投資も日本経済を支えることにはなるが、リスクもあるし、そもそも投資する余力がすべての人にある訳ではない。

 

11 実質経済成長率が年平均10%前後の高い経済成長をした。
  • 〇アバウトな表現であるが正しい。現在では到底考えられない成長率であった。
    なお、名目成長率はもっと高い。インフレのため、実質経済成長率はそれより低くなるが、前の年より給料が1割ずつ高くなるなんて今は夢のまた夢。

 

12 高い経済成長率のため、政府が国債を発行することはなかった。
  • ✕1965年以降、「建設」国債を発行している。否定文なので、そもそも怪しいが。

 

13 1960年代には、臨海部に工業が集積し、太平洋ベルト地帯が形成された。
  • 〇1960年代とか、臨海部とか、チェック項目はあるにしても、正しい。
    なお、太平洋ベルト地帯は「集積の利益」の一例として問われることも予想される。

 

14 1960年代には原子力発電も始まった。

 

15 「三種の神器」と呼ばれる耐久消費財が普及した。
  • 〇電気洗濯機・電気掃除機・電気冷蔵庫。いずれもわざわざ電気と付けているが昭和らしい。

 

16 一人当たりGNP(国民総生産)が、資本主義国第二位となった。
  • ✕1968年国としては西ドイツを抜いたが、一人あたりではまだ低かった。

 

17 国際収支の悪化を理由とした輸入の数量制限ができなくなった。
  • 〇1955年にGATTに加入した日本、経済発展に伴ってGATT「11条国」になったため、自由貿易をより徹底することが求められた。

 

18 IMF8条国への移行に伴って、為替管理が強化された。
  • ✕為替管理とは「政府が外国為替取引に介入・統制すること」で、これができなくなった・・・ということは、強化されたではなく、制限されたという意味になる。

 

19 企業物価(卸売物価)は上昇したが、消費者物価は下落傾向にあった。
  • ✕消費者物価が下落というのはさすがにない。両者はある程度連動していると考えると、とりあえず怪しいと判断しておこう。

 

20 社会保障制度の整備が進み、国民皆保険・国民皆年金の体制が整えられた。
  • 国民皆保険・国民皆年金は1958,59年と、高度経済成長期の前半で実現された。

 

21 日本企業は、為替レートが円高水準に固定されていたことによって、必要な原油を安く調達することができた。
  • ✕基本的には円安水準で輸出に有利であった。一方で、円安水準のため、輸入品は割高であり、原油もその例外ではなかった。
    ただし、原油価格はこの時期は比較的安定していた。しかし1970年代になると「資源ナショナリズム」が加速化され、価格も高騰するが、他方で、変動為替相場制となり、神の見えざる手で調整された側面もあった。

 

22 日本企業は、金融機関の潤沢な資金供給に支えられて、外国企業の買収・合併を盛んに行うことができた。
  • ✕この段階ではできない。たまに、その時期でない、時代をずらした出題もあるので注意。

 

23 競合する外国製品から国内の工業を保護するために、貿易の自由化は、国内の工業の競争力に応じて段階的に行われた。
  • 〇このあたりも判断が難しいところだが、政府によって「段階的に」実施された。具体的には、輸入数量制限の撤廃、関税率の引下げ等によるが、一方で、このことが、日本の輸出産業の競争力を高めることも期待されていた。結果として、海外製品に押されるケースもあったが、保護貿易が許されない以上、また急激な変化にならないよう「段階的に」自由化が進行した。

 

24 銀行は、「護送船団方式」といわれる政府の手厚い保護によって、証券業など異なる業務分野への参入が容易に認められた。
  • ✕「護送船団方式」は、特定の産業を行政が保護して、弱小企業に合わせて足並をそろえ、過度の競争を避けて安定した秩序を確保したうえで、その産業全体の存続と収益力を高めようとしたもの。金融機関でも、弱い金融機関を保護するために、自由競争を制限していた。また、他の業種からの参入も規制されていた。現在は、金融改革により金融業界の規制緩和は大きく進んでいる。

 

25 金融機関は、行政指導を受けずに自由な競争を繰り広げて、企業に資金を提供した。
  • 護送船団方式で、保護とともに、「行政指導」によるものも含めて様々な規制があった。

 

26 政府系金融機関を通じた低利の財政投融資資金は、大企業に貸し出されたが、中小零細企業や農林漁業者には貸し出されなかった。

 

27 株式会社の経営者は、株式の相互持合いによって、敵対的な企業買収の防止を図ってきた。
  • 〇現在でこそ敵対的買収もあり得るようになったが、この時期は、株式の相互持合い、お互いに相手の発行済み株式を保有して安定化を図ろうとしていたので、敵対的な企業買収などできなかった。OECDに加盟したことで、貿易の自由化だけでなく、1967年から「資本の自由化」も始まったために、「外資による企業買収」から逃れるため、株式の相互持合いは強化されていった。

 

28 株式会社の経営者は、社外取締役を積極的に登用することで、経営の透明性を高めてきた。
  • ✕この時期のことではない。現在であれば正しいが。

 

29 都市の中心部の人口減少と郊外の人口増加がみられ、ドーナツ化現象と呼ばれた。
  • 〇単に言葉の意味を理解するだけではなく、デメリットとして、多くの人が郊外に住み都心に通勤・通学をすると、通勤電車や道路の混雑を招くようになること等も押さえておこう。

 

30 都市の中心部の地価高騰によって、郊外において生活環境が整備されないまま無秩序な住宅開発が行われ、スプロール現象と呼ばれた。

 

31 1970年代後半までの全国総合開発計画はリゾート施設の建設を重視する開発であった。
  • ✕1962年から数次にわたる計画が出された。当初は、石油化学や鉄鋼などのコンビナートの建設を中心とする拠点開発。リゾート開発は1980年代後半の第4次。このあたり今後は問われることもないかと思うが、いずれにせよ、国主導の大型事業に関する投資計画であって、地域の自治の視点が抜け落ちてしまっていたものだった。

 

32 農村人口の減少に伴って、GNP(国民総生産)に占める農業生産の割合が低下した。
  • 〇農業を含む第一次産業の占める割合は1955年では20%を超えていたが、現在は2%を割っている。産業の比重が、第一次産業から第二次産業、 さらには第三次産業へと移行していくことを「産業構造の高度化」と呼ぶが、これでいい訳がない。ただし、世界一の農業国であるアメリカでも農業生産はGDPの1%でしかないとのこと。

 

33 都市での住宅需要の増加に伴って、都市の地価が上昇した。
  • 〇都市の中心地であれば、住宅需要ではなく商業利用による地下の高騰であろうが、ここでは、都市とあるので、郊外も含めて宅地開発による地価の上昇とみて、〇と判断したい。高度成長期には、それほど、農村部から都市部への急激な人口移動があったということ。1972年に出された「日本列島改造論」は、過密と過疎を解消するためのものであったが、地方都市の地価も上昇させることになった。
    ただし、この「地価」の問題としては、この時期以上に、1980年代末の「バブル期」の方がより上昇率が高く、狙われるとしたらバブル期かも。

 

34 経済成長が実現する一方で、イタイイタイ病・熊本水俣病・四日市ぜんそく・スモン病の被害をめぐる、いわゆる四大公害訴訟が起きた。

 

35 高度成長期に日本政府は欧米並みの豊かな社会を目指し、産業関連の社会資本よりも生活関連の社会資本の充実を優先させたので、国民の暮らし向きは飛躍的に向上した。
  • ✕こんなとんでもない文章に惑わされてはならない。「生活関連」の社会資本は立ち遅れた。