01 財閥解体を進めるため、持株会社方式の強化を通じて、巨大企業の分割や企業集団の再編を行った。
02 持株会社を解体・禁止し、株式所有の分散化が図られたが、最終的に分割されたのは少数の大企業であった。
- 〇少数の大企業=「財閥」という連想ができれば、正しいと判斷できるが・・・そうでなければ悩む文章・・・その意味では難問。4大財閥をはじめ83社が「持株会社」に指定され、そのうち財閥本社とみなされた28社が解体され、残りは分割されたが、再建されて存続が認められたものもあった。
03 傾斜生産方式が採用され、石炭・鉄鋼などの重要産業に、生産資源が重点的に配分された。
- 〇石炭・鉄鋼、これが後の後期高度経済成長の原動力に。
04 労働運動弾圧の根拠とされた治安維持法が廃止され、憲法で労働者の団結権などが保障されるとともに、労働組合の結成が進んだ。
05 地主制を廃止するため、不在地主の所有地のうち農地と山林は小作農へ分配し、未利用地は原則として公有化された。
- ✕農地の大土地所有は解消したが、山林については解消されなかった。
06 農地改革の一環として、米の生産過剰に対処するために、他の作物への転作が奨励された。
- ✕この段階では米不足。むしろ米づくりのために各地の干潟が農地に転用されたほど。
07 第二次世界大戦の終戦直後の日本において、インフレーションが発生した背景には、通貨の大量発行や物資の不足などがあった。
- 〇通貨が大量発行され市場に出回ると、金余りから、急激なインフレ、いわゆるハイパーインフレが生じる。物資不足も、需要と供給の法則から当然値段は跳ね上がるので正しい。
08 日本経済復興のために、国際連合が、ガリオア・エロアとよばれた援助を行った。
- ✕国際連合ではなくアメリカ。1946年から1951年まで。ガリオアが食や医療品、エロアが工業原料や機械の輸入代金。さすがにこれを入れ替えるような愚問は出ないとは思うが、
・ガリオアがGovernment and Relief in Occupied Areas、
・エロアがEconomic Rehabilitation in Occupied Areas、
経済的な支援「E」が入っているのがエロア・・・といったところに着目してインプットしておこう。
なお、この支援は現在で言うと20兆円を超える巨額な援助であったとのこと。日本が復興できたのはこのおかげでもある。1947年マーシャル・プランでアメリカはヨーロッパの復興を支援するが、日本を共産主義の防波堤とするため、巨額な支援をしていた訳だ。なお、日本が「世界銀行」から支援を受けるのは、主権回復後の1952年。まずは、アメリカなのだ。
09 GHQの経済安定9原則に基づいて復興金融金庫が設立された。
- ✕復興金融金庫は1947年に日本政府が設立したもので「復金債」を発行して大量に通貨を提供した。「経済安定9原則」はそのインフレに対処するためのもので、米国政府がGHQを通じて日本政府に1948年に指令した。その具体化の1つがドッジ・ライン。何気ない一文であるため、ぼやーと読むと誤りに気づかないぞ。
10 ドッジ・ラインを実施し、デフレの収束を図った。
- ✕デフレではなく、インフレを収めるための政策。インフレ対策なので、財政金融「引き締め政策」であったことも問われる可能性あり。
11 ドッジ・ラインによって経済安定化のために超均衡予算が実施された。
- 〇超均衡予算とは均衡(歳入≒歳出)を超えるという意味で、予め歳入が歳出を超過して余剰が出るように組まれた予算。インフレは市場に貨幣が流れすぎると発生するので、歳出を最低限にし、政府は余剰分を国債発行の返済にまわした。
12 ドッジ・ラインによって1ドル=360円の単一為替レートが設定された。
- 〇このレートが1971年まで続くことになる。当初、日本にとって輸出に有利になるように、やや割安な1ドル=360円の固定レートが設定されたとされるが、異論もある。
ただし、後には明らかに日本にとって輸出に有利なものとなり、1971年には、「日本よ、それそれ相応の負担をして、独り立ちせよ」と、変動為替相場制に移行することとなる。
13 ドッジ・ラインによってインフレは収束したが、生産が縮小し深刻な不況となった。
- 〇これを特に「安定」恐慌と呼ぶ。政経では問われるかも。
14 シャウプ勧告の下、間接税中心の租税体系が定着した。
15 朝鮮戦争の特需景気によって生産が拡大し、外貨が増え、不況から脱した。
- 〇超重要項目だけど・・・試験にはあまり出ていないようだ。1950年のこと。「特需景気」により、1954年からは神武景気となり、翌年から高度経済成長時代へと移行することになる。